目の前の収支だけを見れば「赤字」に見える。
けれど、万博のようなものは、未来に芽を出す“種まき”の行為だと思う。
すぐに実るわけではないけれど、長い時間軸でみれば確実に花を咲かせる投資である。
「赤字か黒字か」だけでは測れないもの
大阪・関西万博の建設費をめぐって、「黒字化は難しい」「結局は赤字ではないか」という議論が起きています。
数字の上での議論はもちろん大切です。けれど、万博の本質的な価値は「開催中の損益」では測れない部分にあるのではないでしょうか。
万博は、**国が未来に向けて行う“社会実験”**のようなもの。
そしてもうひとつの側面として、**人の心に残る“思い出の装置”**でもあります。
国への“種まき”としての万博
もし開催終了までの会計をまとめて「赤字」だとしても、それで終わりではありません。
なぜなら、この場所で得た刺激や出会いが、後々になって社会に還元されていくからです。
たとえば——
- 万博で最先端技術や海外の文化に触れた子どもが、将来それをヒントに新しいサービスを作るかもしれない。
- 出展企業同士の協働から、10年後に世界を変えるビジネスが生まれるかもしれない。
- “誰かの記憶の中のワクワク”が、のちに街づくりや文化活動の原動力になるかもしれない。
これらは直接的な収益では見えない、静かな複利。
GDPのグラフにはすぐ現れないけれど、確実に国の創造力を底上げする“見えない資産”です。
(♯心理学的にも、こうした経験の積み重ねは「文化資本(cultural capital)」や「創造的自己効力感(creative self-efficacy)」を高めると言われています。短期的コストを超える長期的効果があるということです。)
一人ひとりの“思い出の種”としての万博
もうひとつの意味の種まきは、「個人の人生」に対するものです。
私たちは生きていく中で、時間やお金の価値を数字で計算できるけれど、思い出の価値は計算できません。
- 友人や家族と訪れたときの高揚感
- 見た展示やパビリオンが残す印象
- 「あの時、あの場所に行ったね」という共有できる記憶
こうしたものは、10年、20年経っても語りたくなる記憶になります。
人生を豊かにするものは、最終的には“思い出”です。
そして、共有できる思い出を持つことは、社会のつながりを強くする。
だから私は、万博のような「みんなが同じ空気を共有できる大きな祭り」は、文化的インフラとして必要だと思うのです。
「短期の損益」ではなく「長期の文化収支」で考える
もちろん、国費を投入する以上、コストの妥当性や優先順位を検証することは欠かせません。
しかし、すべてを短期の損益で判断してしまえば、未来への投資の芽が摘まれてしまう。
- 教育も、研究も、文化も、最初は“赤字”から始まる。
- けれど、そこにしか新しい価値は生まれない。
- 種を蒔かない国は、少しずつ枯れていく。
万博は、その「種を蒔く装置」。
その種が芽を出すのは、もしかしたら10年後か、20年後かもしれない。
でも、その時、私たちはきっと気づくはずです。
「この花の種は、あの時の万博で蒔かれたんだ」と。
まとめ
- 万博の価値は、**会計上の収支よりも「未来の文化収支」**にある。
- 目に見えない“刺激”や“記憶”が、創造性という形で後から回収される。
- 思い出の共有は、社会をつなぐ見えないネットワーク。
- 国も人も、種を蒔かなければ枯れる。
万博は「赤字事業」ではなく、「未来への投資」だと思う。
今を超えて花開く、その瞬間のために——。
